昭和44年11月25日 夜の御理解
中村良一
今日の、二十五日の研修会に、私は今日、お夢を頂いたことを、皆さんに聞いてもらったんですけれども。人間の汚いものという事か、改まらなければならないという事は、もう、限りなくあるという様なことを、私は、その夢の中から、私は、感じ取らせて頂いたことを、話させて頂いたんですけれども。ようと考えよったら、まぁだまぁだ、あれにおくらったなぁと思うて、こんな夢じゃったんです。やはり、私は、紋付袴付けとるけれども、私が、あの若い時に、酒屋の番頭をしとった時分のようで、ご主人が、店の火鉢の前に、ちゃんと座っておられる。こちらのほうには、酒樽が、ずらっと並んでおって、酒が並べてある。そこで、私があの、コップに酒を一合ぐらいのコップに、半分、酒を注いで、私がこう飲んでおる。そしてその、飲みながら思いよることは、自分が一合、いっぱい注いで飲んだら、主人が、どうか喧しく言おうと思いよるけれど、五勺ぐらいじゃ、文句の言いようもない。けども、心の中では、酒、あげん飲んでからと、やっぱ、思いよるごたる風だけれども、少しばかりだから言われもせん。そこん所を、こっちが心得ておって、その、五勺ずつ飲みよると言うような、お夢であった。
いっぱい飲むなら、向こうはもう、そげんとは、商売もんば飲うちから、言われるけれども、少しであるために、ご主人も言われまいという様な、その、ところを見過して、私がその、お神酒を頂きよる、酒を頂きよると。五勺ぐらいなコップを、こうやって、ちびちび、ご主人の前で、まぁ言うならば、平気ででもないけれども、それと言うて、恐々でもないといったようなところを頂いて、自分の心の汚いというか、そういう頂き方をしよるという風に、今日は、聞いてもらったんですけれども。
よう考えたら、これは、それでもあろうけれども、例えば、私達が、信心させて頂いて、色々と、ここをいっちょ改まらにゃいかん。ここをと、まぁ色々思うことがあるけれどもね。それを、中途半端にしておる事だと、こう思いましたね、私は。一期という事は、この一期、一期と書いてあるね。一期という事は一生と言うことである。私たちがその、一生改まらんと言いよるのじゃない。何か機会があったら、改まらならんと思おうとるといった様な、中途半端な改まり方。だから、神様としても、もう、改まらんと言いよるとじゃないけんで、その、どうも言い様がない。改まらにゃん、改まらにゃんち言うたり、思うたりしよるのだから、本当にもう、ぐずぐずして、いつまっでも、よう改まりきらんと、神様は、思いよりござっても、なしや、どうして一遍に改まらんかとは、言いよりなさらんものがです。私共の内容にありはせんだろうかと。いわゆる、改まらんとならんと分かっておりながら、と言うて、こわごわではないけれどもです。その、神様は、こんくらいの事は、認めてくださるじゃろうぐらいな様なものがね。私共の信心の修行の中にあるのだと、私は思うです。そういう、中途半端なもの、そういうものをです、スキッとこう、神様は神様のもの、飲んでいけないものは、飲んでいけないものとしてです。すきすきっとこう、改まって行けれる人が、信心が上達するのであり、そういう、例えば、生き方では、一生、それこそ、一期の悔いを残すような結果になるんではないかと、私は、そのお話をした、その後に、また、そんな風に思わせて頂いたんですけどね。私達は、そこにありますと、もう、沢山、そういう意味でならあります。ここをいっちょ、改まらなきゃならんと。けども、必ず、ここんところを、いつかは改まらなきゃならんだろうと、こう思ってるです。けれども、まぁだまぁだ、こらえといて貰ってと言った様なものがですね、それが、すきっと、ほんなら、改まったからと言うて、すぐに改まらなければという事もないかと言うと、またあるのです。ですからもう、かつがつ、やはり、すきすきっと、気が付いたところは、改まっていくという決断の心こそ、元気な心じゃなかろうかと、私は思うですね。どうぞ。